こっちmiruna!

miruno...? NO!miruna!!

「時間」は誰にも等しく同じように流れている、なんて嘘。

Δ時間の流れは本当に一定なのか

私達人間にとって、時間の流れは速くなったり遅くなったりするものではない。
疑うことなく、そう信じてきた。
誰にも等しく同じように流れているもの、それが「時間」だ。
何故か。
それは、時計の針が一定の間隔できちんと刻まれているからだ。
しかし、私達が疑うことのなかった「時間の流れ」が、一定ではなかったとしたら?

Δ体感としての時間


何故、小さい頃はあんなに1年が過ぎるのが遅かったのだろう。
そして何故、大人になってからの1年はあっという間なのだろう。
時間は誰にも平等に、同じように流れていると思っていたけれど、もしかして違うのか?
そんな事をかんがえるようになった。

 

思い返すと小学生の頃は、いつか大人になってしまうなんて信じられなかった。
いつまでもこんな日々が続くのだと思っていたし、そう思う程に時間の流れはゆったりしていた。

ところが、大人になってからはどうだ。
一日、一日が目まぐるしく過ぎていき、追いつけないほどだ。
私なんて、今年は去年よりもさらにスピードが上がってしまった。
気がつけばもう明日は師走だもの。

 

 

Δ時間の流れ方の秘密、調べるか調べまいか、あるいは

年齢、あるいは人によって時間の流れる早さが違うのかもしれないという事に気づいた時、それが本当かどう調べるのは容易いことではある。
今すぐ目の前のPCに「時間+流れる速さ」とでも打ってand検索すれば、きっと答えは出てくる。
でも、せっかく知ってしまった(かもしれない)時間の秘密を、and検索などというもので台無しにしたくはない。

 

この際、私にとっての時間の流れ方が何故年齢を重ねる毎に早くなっているのかを考えて、楽しんでしまおうではないか。

 

Δ私なりの仮説「時間の流れる速度は情報処理速度次第」

私なりに時間の流れ方について考えてみた結果、一つの仮説を立てることが出来た。
それは、「時間の流れる速度は情報処理速度次第である」ということだ。
何の話だ?と思う方もいるかもしれない。
私が立てた仮説の内容というのは、こういうことだ。

 

私(達)が幼少の頃に感じた時間の流れは、ゆったりと遅いものであった。
それに対して大人になって感じる時間の流れは、毎年早くなっていく。
ここで、「年齢」に着目したい。
私(達)がこの世に生まれ落ちた時というのは、見るもの・聞くもの・体験するもの、全てが新しい。
時間の流れの中で、私(達)は沢山の「新しい何か」に出会い、経験として吸収してきた。
「新しい何か」に出会う経験は、幼少の頃であればある程多いものだ。

 

それに比べて、大人になってからの私(達)というのは日々が同じことの繰り返しになりがちである。
人によっては「新しい刺激」を求めて何かチャレンジするという事もあると思うが、一日の大半は仕事に費やす人が殆どであるだろうし、数多くの新しい体験はなかなかできないだろう。

 

ここで、見たり・聞いたり・学んだりなど、自身が新しく経験した事を脳で一つの情報として処理すると考えるとする。
すると、色々なことを新たに体験することが多い時(つまり若い時)の方が、情報量が莫大な為に情報処理に時間がかかることになる。(=時間がゆっくり流れる)
逆に、大人になってからは新しい体験をすることが少ない為、情報を時間をかけずにスムーズに処理できる。(=時間の流れが速い)

 

「脳が情報を処理する速度」、これが「時間の流れる速さ」の正体である、ということになる。

 

時間の正体は秘密のままで

ここまで書いてきたけれど、この話はあくまで私が勝手に考えただけの話であって、きっと時間論のようなものがこの世には存在するのだろうと思う。
でも、私は意地でもand検索はしたくない。
もう少しだけ、時間の正体について考えることを楽しみたい。
でも、1つだけ分かっていることがある。

 

やっぱり、「時間」は誰にも等しく同じようにながれている、なんて嘘。

 

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今日の一枚。
ここは9時6分で時間が止まっているようです。