生まれ育った町での「異常」な体験が私に残したものは
自分の生まれ育った町を「異常だ」というのは、ほんの少し胸が痛む。
以前、こんなブログ記事を書いた。
埼玉県にある、赤城山が遠くに見える小さな町で、私は生まれ育った。
かつての私にとって、その町は世界の全てだった。
私は、あの町が嫌で嫌で仕方なかった。
私の家族も、町の人々も、そして私自身さえもが「異常」だったからだ。
赤城山が遠くに見える小さな町で。 - こっちmiruna!
確かに私はあの町でたくさんの「異常」な人々に出会ったし、「異常」な出来事に悩み、苦しんだ。
若い頃の私にとっては、私の住む町というのは私にとっては世界の全てだったし、家族と言うのは世界の中心のようなものだった。
町も、家族すらも健全に機能していなかったことが私に与えた影響は、どんな言葉でも言い表せない。
不思議なもので、 私が「赤城山が遠くに見える小さな町で。」を書いた時、(私がこのブログを作ったのは、これを書く為だったのだな)と思った。
そして、あの町での出来事をきちんと書くべきなのだろう、とも。
書く、という方法以外に、私が過去と向き合える方法はない。
向き合ったところで、私が今も抱える苦しみから解放されるとは限らない。
しかし、「何故私は今も苦しんでいるのか」ということを理解する手助けにはなるだろう。
私が生まれ育った町での「異常」な体験が、本当に私に残したものが一体何だったのか。
知るべき時がきたのかもしれない。
今日の一枚。
優しいような寂しいような。
今はただ、歌おう。
今日は、一段と空気の冷たい日であった。
部屋の片づけをして、少し仕事を片付けて。
もういいや、今日はいいや。
そんな風に思ったので、のろのろと毛布に包まってぼあぼあと暖かいラグの上でぼんやり音楽を聴いていた。
いつだって音楽は、私に優しい。
――病気にさえ、ならなければ。
そんなことを考えながら、OASISのlive foreverを口遊む。
病気の告白をしてからいつの間にか連絡の取れなくなってしまった、かつての親友達。
私の病気が原因で、私の病気が恐ろしくて、変わってしまった私を気味悪く感じて、だから私から去っていってしまったなんて聞きたくもなかったし知りたくもなかったよ。
永遠なんてものはないと、終わりはくるのだと、そんなことは分かりきっていても、ただただ悲しい。
治ることのない病気に振り回される人生に、いつ、私は決別できるのだろうか。
親友達とはとっくに決別してしまったというのに。
暖かい毛布、ぼあぼあのラグ、そして優しい音楽に包まれて、今はただ、歌おう。
「時間」は誰にも等しく同じように流れている、なんて嘘。
Δ時間の流れは本当に一定なのか
私達人間にとって、時間の流れは速くなったり遅くなったりするものではない。
疑うことなく、そう信じてきた。
誰にも等しく同じように流れているもの、それが「時間」だ。
何故か。
それは、時計の針が一定の間隔できちんと刻まれているからだ。
しかし、私達が疑うことのなかった「時間の流れ」が、一定ではなかったとしたら?
Δ体感としての時間
何故、小さい頃はあんなに1年が過ぎるのが遅かったのだろう。
そして何故、大人になってからの1年はあっという間なのだろう。
時間は誰にも平等に、同じように流れていると思っていたけれど、もしかして違うのか?
そんな事をかんがえるようになった。
思い返すと小学生の頃は、いつか大人になってしまうなんて信じられなかった。
いつまでもこんな日々が続くのだと思っていたし、そう思う程に時間の流れはゆったりしていた。
ところが、大人になってからはどうだ。
一日、一日が目まぐるしく過ぎていき、追いつけないほどだ。
私なんて、今年は去年よりもさらにスピードが上がってしまった。
気がつけばもう明日は師走だもの。
Δ時間の流れ方の秘密、調べるか調べまいか、あるいは
年齢、あるいは人によって時間の流れる早さが違うのかもしれないという事に気づいた時、それが本当かどう調べるのは容易いことではある。
今すぐ目の前のPCに「時間+流れる速さ」とでも打ってand検索すれば、きっと答えは出てくる。
でも、せっかく知ってしまった(かもしれない)時間の秘密を、and検索などというもので台無しにしたくはない。
この際、私にとっての時間の流れ方が何故年齢を重ねる毎に早くなっているのかを考えて、楽しんでしまおうではないか。
Δ私なりの仮説「時間の流れる速度は情報処理速度次第」
私なりに時間の流れ方について考えてみた結果、一つの仮説を立てることが出来た。
それは、「時間の流れる速度は情報処理速度次第である」ということだ。
何の話だ?と思う方もいるかもしれない。
私が立てた仮説の内容というのは、こういうことだ。
私(達)が幼少の頃に感じた時間の流れは、ゆったりと遅いものであった。
それに対して大人になって感じる時間の流れは、毎年早くなっていく。
ここで、「年齢」に着目したい。
私(達)がこの世に生まれ落ちた時というのは、見るもの・聞くもの・体験するもの、全てが新しい。
時間の流れの中で、私(達)は沢山の「新しい何か」に出会い、経験として吸収してきた。
「新しい何か」に出会う経験は、幼少の頃であればある程多いものだ。
それに比べて、大人になってからの私(達)というのは日々が同じことの繰り返しになりがちである。
人によっては「新しい刺激」を求めて何かチャレンジするという事もあると思うが、一日の大半は仕事に費やす人が殆どであるだろうし、数多くの新しい体験はなかなかできないだろう。
ここで、見たり・聞いたり・学んだりなど、自身が新しく経験した事を脳で一つの情報として処理すると考えるとする。
すると、色々なことを新たに体験することが多い時(つまり若い時)の方が、情報量が莫大な為に情報処理に時間がかかることになる。(=時間がゆっくり流れる)
逆に、大人になってからは新しい体験をすることが少ない為、情報を時間をかけずにスムーズに処理できる。(=時間の流れが速い)
「脳が情報を処理する速度」、これが「時間の流れる速さ」の正体である、ということになる。
時間の正体は秘密のままで
ここまで書いてきたけれど、この話はあくまで私が勝手に考えただけの話であって、きっと時間論のようなものがこの世には存在するのだろうと思う。
でも、私は意地でもand検索はしたくない。
もう少しだけ、時間の正体について考えることを楽しみたい。
でも、1つだけ分かっていることがある。
やっぱり、「時間」は誰にも等しく同じようにながれている、なんて嘘。
今日の一枚。
ここは9時6分で時間が止まっているようです。
月末の財布の謎
月末の財布がからっからなのは何故。
今日も、朝がやってきた。
窓を開け、清々しい空気をおもいきり吸い込む。
すう、はあ。
窓からはキラキラとした日差しが差し込んでくる。
私はおもむろに財布を開いた。
中には、137円、入っていた。
「今月も、か…。」
思わず溜息をつく私。
どうして、月末になるとこんなに財布の中がからっからに干からびているのだろうか。
大きな買い物をしているつもりはないし、無駄遣いもしていない。
……と、思ったけれど、今月は本を結構買ったのだった。
今思い出した。
でも、本を買ったくらいで財布が干物状態になるのは寂しいものがあるよな。
ディズニーランドで彼氏と喧嘩するくらいの寂しさだよな。
月末干物財布の私にも、欲しいものがある
毎月、いつの間にか財布が干物状態になってしまう私でも、物欲はある。
今、一番欲しいのは「カメラ」だ。
iPhoneで写真を撮るのが私の趣味の一つなのだけれど、最近はiPhoneで撮るのが少し苦痛になってきた。
どうしても不満に思ってしまう。
背景のボケ感がイマイチなことや、画角の狭さ、なんとなくのっぺりした印象になってしまう事…。
「もっとこういう風に撮りたいのに」
そう思い始めたら、もうカメラが欲しくて堪らなくなってしまった。
これ、ブログ書きながら思ったのだけど、ミラーレス一眼カメラを来年の40歳の誕生日までに買おうかな。
いや、買おう。
40年間、頑張って生きてきたご褒美だ…!
しかし、この状態では貯金もへったくれもない。
さて、どうするか。
月末の財布の謎について、解き明かすしかなかろう。
幸い、12月からつけられる家計簿を購入済みだ。
年明けには謎が解明されるだろう。
…月末まで家計簿がつけられることを祈る。
今日の一枚。
秋葉原で撮った写真。
なんとなく載せてみました。
真夜中の竹の塚で写真を撮る
真夜中の竹の塚にて
空気がびりびりと震えるようになると、冬の訪れを感じる。
(もう、冬か…。)
耳朶までびりびり痛くなるような冷たい夜、私は思わず溜息をついた。
マスクのせいで、眼鏡がふあぁと曇る。
真夜中の竹の塚で、私はiPhoneを握りしめていたのだった。
冬の訪れと不眠症、そして竹の塚
今年も、冬の訪れとともに無事(?)不眠症になった。
例年ならば、うだうだと布団に潜って音楽を聴いて朝を迎えるのだが、今年の私はちょっと違う。
いや、一味も二味も違う。
何故ならば、写真という趣味があるからだ…!
いつもなら、いくら写真を撮るのが好きとはいえ、真夜中にわざわざ写真を撮りに出掛けることはない。
しかし、この冬の私は二味は違う。
わざわざ自転車を漕ぎに漕いで愛しの竹の塚まで行ってしまうわけである。
以前にも少し話したかも知れないが、私は竹の塚という街が何故だか好きだ。
特に、あの団地の群れゞを眺めるのは堪らない。
階段を下から見上げてみたり、壁に入ったヒビを見つめたりしていると、段々自分と世界の境界線が無くなってくるのだ。
それが、怖くもあり、落ち着くような気もする。
世界との境界線がなくなる体験が、しらふで出来る街。
最高。
そんなことを考えながら、竹の塚へ自転車を走らせる。
いつもの自転車置き場に着き時計を見ると、時刻は午前0時を過ぎていたのだった。
50枚写真を撮っても、気に入るのはほんの数枚
さて、ぶらぶらと駅周辺を歩く。
さすがに真夜中の竹の塚で暗がりを歩くのは勇気がいる。
(いやあほら、私は団地が好きだから…)
なぞと言い訳をしながら、団地を写真に収めていく。
そうそう、昨夜は50枚程写真を撮ったのだけれど、それだけ撮ってもあとで見返すと殆どが面白くない写真だ。
もう少しブログに載せられる写真があるかと思ったけど、ほんの数枚だけだった。
悲しい。
これが最初の一枚目の写真。
母に送って感想を聞くと、
「なんで団地を撮ってるのに建物全体を写さないの?」
と言われた。
私もそれはそうだと思うけど、建物全体を撮るにはiPhoneは画角が狭いと思うし、あまりそういう写真を撮りたいとは思わない。
不思議な物体や、汚いごみ箱、階段、狭い路地裏、そいういうものを撮るのが好きだ。
この写真もこの不思議な金属が気になって撮ったのだけど、この撮り方をするなら縦長の写真にして上まで奥行きを作ればよかったな、とふと思ったり。
これは、先程の写真の不思議な金属の向こう側を覗いて撮ってみたもの。
なんだか写真のフレームみたいで面白い。
こういうチャレンジは好き。
次の写真は、商店街にある公園のブランコ。
こうして見ていると、やはり竹の塚は東京っぽさがない。
すぐ隣が草加市だから、なんとなく竹の塚も空気感が埼玉に似ているのだろうか。
私自身が埼玉生まれ、埼玉育ちなので、竹の塚のそういう部分もなんとなく親近感を感じるのかもしれない。
商店街を抜けて西新井方面へ、ずんずん、ずんずんと歩いていく。
(電灯が煌々と明るいとはいえ、なんだか怖いな…)
実はかなりのビビりな私は、暗がりの街並みに少しずつ不安になっていった。
(木の陰から誰か出てくるんじゃないか…)
そんな(勝手な)恐怖心まで芽生える始末。
ビビりすぎ。
街並みを写真に収めていると、ふと「ある言葉」が浮かんだ。
(真夜中の白黒写真は駄目だ…)
(駄目…無理!)
急にパニックになる私。
猛烈ダッシュして商店街の方へ戻る。
息をきらして戻ってくると、美しい椿を、見つけた。
灯りに照らされた椿を見て心底ホッとしたのも束の間、急いで自転車置き場へ向かう。
自転車置き場には、私の自転車だけが停めてあった。
一度だけ大きく深呼吸して、それから、自転車の鍵を外す。
「早く帰って寝よう。」
私はなんとなく声に出して呟き、自転車を走らせ始めたのだった。
良い文章とは何か。
良い文章とは、何なのだろう。
ここのところ、いろんな人のブログを読むのが私の楽しみの一つだ。
変なもので、文章の作りや構成が上手いなと思っても「良いなぁ」と思えない事が私にはある。
逆に、「良いなぁ」と思える読み物は読むうちにどんどん面白くなってきて、「もっと、もっと」と読んでしまう。
私もこうしてブログを立ち上げて色々(と言う程でもないけど)書いているが、一番好きなのはこれだ。
私は、自分で書いたものを後から何度も読み返す癖があるのだけど、この記事は特に好きで何度も読んでいる。
生まれ育った小さな町、自分自身、そして家族という最も身近なコミュニティーへ今も抱く感情に、激しく揺さぶられた夜の事を書いた。
「いいなぁ」と、何度読んでも思う。
何がいいのかと聞かれると困る。
私は、感じたことや考えたことを「形」にするのが苦手なのだ。
実は、この『こっちmiruna!』というブログを始めたのは、感じたことを「形」に出来るようになるためでもある。
最近、まだ「形」にするのに慣れていないなりに文章を書いてきて、やはり「良い文章」を書きたいなと思うようになった。
しかし、「良い文章」とは一体何なのだろう。
私の思う、「良い文章」
ここで、私が「良いなぁ」と思う文章の特徴を思い起こしてみようと思う。
とにかく私が「良い」と感じるものにフォーカスを当てていきたい。
誰が書いたのか読めば分かる文章
借り物ではないその人だけの言葉で書いたもの、というのは、誰にも真似することは出来ない。
そういう文章は時として、誰が書いたのか読めばすぐ分かってしまうほど、個性的だ。
※もしも村上春樹氏が〇〇のシチュエーションで文章を書いたら…みたいなのが流行ったけれど、特徴を捉えられてて読むのが面白いよね。でもやっぱり真似は真似だといつも思う。
絵もそうだし、音楽演奏でも同じだけれど、一目見て、聴いて、「あぁ、これは〇〇さんの絵(演奏)だ」と分かるというのは何より最強だ。
憧れる。
心からの「良いなぁ」が溢れる。
多分、文章でも同じように感じるのだと思う。
ありありと分かる文章
私は、形のないものがありありと分かる…つまり、「匂い」「味」「音」「温度」「湿度」などが、まるでその場に自分がいるかのようにありありと感じる文章が大好きだ。
この話は一度妹にしたことがあるのだけど、妹は
「それってその状況を具体的に書くだけでいいんじゃないの?凄い事でもなんでもないじゃん」
と言っていた。
いや、妹よ、状況を具体的に書くだけじゃ駄目だと姉は思うよ…。
滅多矢鱈に事細かく書いても、温度や匂いを感じる文章にはならない。(と、私は思っている。)
だからこそ、本当にありありと感じられる文章を読んだ時、「あぁ、良いなぁ」と心の底から思うのだ。
普段、「良いなぁ」という言葉で終わってしまっている自分を感じて恥ずかしくなっている午前1時…。
ここまで書いてきて急に気づいてしまった
実は、上の2つの文章を書いてから3時間以上、(もっとないかな…)と考えてたんですよ。
でも、突然気づいちゃったんですよね。
私にとっての「良い文章」は結局、「誰が書いたのかが読んで分かる、個性ある文章」、それだけだ、と。
他にも「良いなぁ」と思う文章のポイントは沢山あるのだけれど、結局それは文章術のようなものだと急にはっきりしてしまった。
「ありありと分かる文章」というのも、文章術だよね、結局。
結論。結局…
「誰が書いたのかが読んで分かる、個性ある文章」こそが、今の私にとっての「良い文章」である。
(2020年11月25日1時36分)
今日の一枚。
急に思いついて書き留めた時の。